-水溜りに浮かべた過去の自分-



暗い空に心も沈む。

激しく打ち付ける音、降り止まぬ雨はまるで俺の罪を責めるかのように、

水溜りに映る自身の姿に一瞬暗い影が過ぎった。

暗い過去と、罪を映すかのような…。



***



「…………」

「……泰衡様?」

「しばらく…一人にしてくれ…。」

「…かしこまりました。」


突然の雨に打たれ、少し感傷的になったか…。


仕事を終えて、何気なく足を向けたのは無量光院。
今は共にいた銀も遠ざけ、一人水辺を眺めていた。

未だ雨も止まぬ中に、傘も持たずに呆けたように突っ立っている。


(らしくないな………。)


自分自身の行動だというのに理解できずにため息が漏れた。

仕事は終ったが、こんな所で無駄にしている時間があるわけではない。
何より雨の中ただ突っ立っていることに意味もないだろう。
風邪をひく、そんなことも思ったがただ吸い込まれるように水辺を眺めていた。



「泰衡様…。」



雨音だけが響いている俺の耳にふと入り込んできたのは暖かい優しい声。
俺の名をそんな風に呼ぶ奴は一人だけ。


「お体を壊されますよ?」


心配そうにそう言って俺に傘を差し出した。


…。」

「はい?」


俺より背の低いが俺に傘を差し掛けるのはかなり無理があるが、
一生懸命背伸びをして、俺を気遣うに少し心が温まった気がした。

仕方なく俺が傘を受け取り持ってやると、
はあからさまにほっと息をつき、
袖口を探して手ぬぐいを取り出すと俺に差し出した。


「何をなさっていたのですか?」

「別に…何も…、」


の問いに答える答えもないまま、適当に誤魔化すように言って、
手ぬぐいを受け取ろうとして、の手に触れて、
驚いて手ぬぐいを取り落としそうになった。


「泰衡様?」

「…………」


雨に打たれて体温は落ち、冷え切っていると自覚のある自分自身の体。
だが、はそれより冷たかった。


(そうか…こいつは…。)


は雪の精霊なのだ、肌が冷たいのは当然か…。


“雪の精”その力のためにどれ程つらい過去を背負ってきたかわからない。
あの時のこと、あの腕の傷、この小さい体で、このか弱い体でどれ程の…。

それを思うと自分の過去も擦れそうだ。
そして罪は色濃く…。

だが同様にそれでもこのやわらかい空気や温かい笑顔が不思議で仕方なかった。
これ程の傷で何故…、


「何故だ…。」

「え?」

「何故笑っていられる?お前の過去の傷は決して浅くはないだろう。
 その腕の傷同様、消えぬほどの…それなのに何故…お前は笑っていられるんだ?
 この世界を…人間を憎いと思わないのか?」


思わず口をついていた。
きっと厳しい表情をしているに違いない。

だがは少し驚いたように目を丸くしただけで視線を外すことはしなかった。
そして俺の目を真っ直ぐ見つめ返して微笑んだ。


「憎くなんて…ないですよ…。」


まっすぐな瞳と、温かい笑顔が、
その言葉が紛れもない真実だと告げていた。


「何故だ?」


再度尋ねる俺に、は少し顔を伏せて言葉を続けた。


「それは…もちろん、あの時のことは嫌な思い出です。
 思い出したくない…、思い出すのも怖いです…。
 でも、嫌な思い出や辛い過去を持たずに生きている人はいません。
 誰もがそんな時を乗り越えて生きているはずです…。」

「……………」


あの時のこと、思い出すのか時折辛そうに声が途切れたが、
最後は力強く言い切った。


「過去に起こったこと、過ぎてしまったことは、なかったことにはなりません。
 それを乗り越えることも容易ではありませんから、長く心を痛めることにはなるでしょう。
 けど、辛い過去でもそれがあるから今があるんです。無駄なことはありません。
 一生懸命生きて、先を、未来を見ていれば傷は癒えて、乗り越えられると信じています。
 決してなくなることはない辛い過去が、その時があったから今があると感謝できる時が来ることを…。」


祈るように手を組み、目を閉じるとはそう言った。
俺より幼く、体も小さい、だが、心は…。

こんな風には決して思えない自分。
こいつは俺よりずっと強いのかもしれない。

奇麗事の言葉でも、こうして素直に受け入れられるのはこいつの言葉だから。

少し複雑な思いを持ちながらもそんなことを考えていた俺に、
はにっこり笑ってもう一つ言葉を続けた。


「それに、私は怖い思いもしたこの世界ですが、来れて良かったって思っています。
 …だって、泰衡様にお逢いすることができましたから…。」

「………………」


思いがけないの言葉。
驚く俺に対し、は変わらない笑顔。


「……馬鹿な………俺の存在にあの過去を清算出来るほどの価値があるとでも?」


動揺しそうな心を悟られまいと皮肉を込めてそう言った。
こいつにそんな言葉が通用するはずもないのに…。

案の定、は全く怯まずに「はい」と言い切り頷いた。

そして、


「私、今とても幸せですから…。」


と、本当に幸せそうに笑っていった。


「……………」


何故そう言い切れる?

何故そう笑って言えるんだ?

俺はお前のために、何一つした覚えなどないのに……。


「馬鹿な奴だな……お前は…………本当に……。」


搾り出すように泰衡様は呟いた。

そして、その言葉を聞いて、泰衡様の顔を見て、
はまた嬉しそうに笑う。

搾り出すように呟かれた泰衡様の言葉は、責めるものではなく、
むしろ愛しさのこめられた声。

そして何よりそう言った時、泰衡様は笑っていた。
最高の笑顔と言える様なものではない、複雑そうな自嘲気味な笑顔。

けれど、泰衡様が笑ってくれたことがには何より嬉しくて、
辛い過去も傷も思い出も、すべて報われる気がした。



雨はいつの間にか止み、空には光が戻っていた。

足元はぬかるみ、けれど見上げた空は晴れやかにどこまでも。

二人でならその空を、見上げることができるだろう……。




戻る



2007.10.08