-人魚姫-




とある海の底。
深い深い海の底に、人魚が住んでいる場所がありました。

とても平和な人魚の国。
そんな国に住む一人の人魚姫が本日誕生日でした。


「誕生日おめでとう!」

「ありがとうございます!兄様!」


美しいオレンジ色の髪をしている兄妹の人魚。
兄様は妹の誕生日を祝い、妹は嬉しそうに笑顔を返しました。


「お前も今日で16歳か。いよいよ陸を見に行けるな。」

「はい!とても楽しみです!」

「…まあ…危ないものもあるから…気をつけるんだぞ。」

「はい!」


心配性の兄様見送られて、人魚姫は海の上に泳いでいきました。
人魚姫が海面に顔を出すと、外は夜。
美しい星空と満月が空に輝いていました。


「わぁ…凄い…!
 あれがお月様ですか、それに星も…こんなに綺麗なものだったんですね…。」


人魚姫は一面に広がる星空を目にし、思わず歓喜の声を上げました。

海の中にももちろん綺麗なものはたくさんありますが、
やはり初めて目にする陸のものは新鮮なのでしょう。

人魚姫が星空を眺めていると、何やら音楽が聞こえてきました。
顔を向けると大きな船があり、そこから音楽が流れているようです。

興味を持った人魚姫は船の近くまで泳いでいきました。


「わぁ…凄い大きいですね…。」


船はくじらぐらい大きく、人魚姫は目を丸くして驚きました。
それに明かりが灯っている窓や帆の飾りつけなどもとても綺麗で。


(きっと人が沢山乗っているんでしょうね…、そしてこの音楽を…)


人魚姫は何だか楽しくなり、
船から聞こえてくる音楽に合わせて歌を歌い、船や空を眺めていました。

しばらくそうしていると、船から人影が出てきました。
遠目でよく見えませんが、どうやら男性のようです。

(何方でしょう…?)

人魚姫は見つかっては不味いと少し警戒しましたが、
じっと海を眺めている男性のことが気になりしばらく様子を見ていました。
男性はただじっと遠くを見つめています。

(……)

人魚姫も、そんな男性をただただ見つめていました。

(…具合でも悪いんでしょうか…?)

しばらく様子を眺めていた人魚姫はそんなことを思いました。
船に乗ると『船酔い』というのになるらしい…。
と兄様が言っていたことを思い出したのです。

(もしかしたらあの人も…)

『船酔い』がどんなものかわかりませんが、具合が悪いなら大変です。
人魚姫が心配していると、何だか空気の匂いが変わった気がしました。


「……!」


それに人魚姫は気づきましたが、
だからと言ってどうすることもできません。

慌てる人魚姫を他所に、風が強くなり、海は荒れ、
とんでもないことに、あの男性は船から落ちてしまいました。

「!?」

人間は水の中では息ができないと聞いています。
見つけなければおぼれて死んでしまうでしょう。
人魚姫は慌てて、海に潜ると、先ほどの男性を探しました。

(ど、どこに…!)

すっかり天気が悪くなり、海の中も暗く、
先の人を探すのは大変でしたが、人魚姫は必死になって探しました。
そして、何とか見つけ出すと急いで岸に向かって泳いでいきました。


「…はぁ…はぁ…」

何とか岸にたどり着いた人魚姫。
人を抱えて泳ぐなんて初めてで、すっかり疲れてしまいました。

けれど、何とかその男性を助けることはできました。
先程何とか水を吐かせると、呼吸が戻り、今もちゃんと息をしているようです。

「…よかった…。」

ほっと安心した人魚姫は、男性の方に改めて目をやりました。

綺麗な黒い髪。
昨夜の夜空や暗い海の底よりももっと漆黒の…。
それでも決して怖い感じはしませんでした。

今は閉じられた瞳も。
昨夜見た限りでは綺麗な黒い色をしていたように思います。

「……」

人間であるこの人の瞳に、
自分が映ることはないかもしれませんが…。

「王子!王子様!」

「!!」

人魚姫がボーっとしていると、誰かがやってきました。
「王子」と言うのはこの男性のことなんでしょうか。
人魚姫は慌てて身を隠し様子を伺いました。

やってきたのは栗色の髪の愛らしい少女でした。

「王子様!」

あの男性を見つけると慌てて駆け寄り、声をかけました。
少女の声に男性は目を覚まし、彼女と共に去っていきました。


(…よかった、ちゃんと目が覚めて…。)


無事帰って行った男性を見送り、
人魚姫もほっとして海に帰って行きました。

ただ少し…ほんの少し心に何かを残しながら…。



***



「おい、どうかしたのか?」

「え?」


海に帰った人魚姫。
あの日から数日が経ちました。

けれど、あの日のことが忘れらない人魚姫は、
何だかぼんやり過ごすことが多くなり、
兄様が心配して人魚姫に声をかけました。


「ここ数日元気がないようだが…何か心配事か?」


兄様にそう言われ、人魚姫は慌てて誤魔化しましたが、
長年共に過ごしている兄様。
そんな言葉で誤魔化すことはできません。

仕方なく…人魚姫はあの日のことを兄様に話しました。


「…そうか、そんなことがあったのか…。」

「はい。」

「で、お前はどうしたいんだ?」

「いえ…別に。ただ…あの方が今どうしているのか気になって…。
 あれから何事もなく、ご無事でいるか…何故か少し気がかりと言いますか…。」

人魚姫はポツポツと自分の気持ちを兄様に話しました。
ただ、自分でもどうしてそんなにあの人が気になるのかはわかっていないようです。


「………」


兄様は少し迷いましたが、
結局魔法使いに会いに行ってはどうかと助言してくれました。


「魔法使い…?」

「ああ、深海にすんでいる魔法使いだ。
 あの人なら人間界の様子を見るぐらいできるんじゃないか?」

「そうですか…」

「まあ…あまり深入りはしないほうが良いんだが…。」


兄様は最後にそう言って人魚姫を見送りました。
そして人魚姫は、兄様に教えられた深海の魔法使いの元へ行くことにしました。



***


暗い暗い深海の洞窟…。

あの男性を助けた嵐の海と同じような暗さに、少し怯えながらも、
人魚姫は何とか魔法使いのいる洞窟へたどり着きました。


「あの…こんにちは、ごめん下さい…。」


人魚姫が洞窟の中に向かって、恐る恐る声をかけると、
洞窟の奥で何か光り、入ってくるようにとの声が聞こえました。

人魚姫が中へ入ると、奥に人影がいました。
どうやらそれが魔法使いのようです。


「あ…あの…」

「俺に何か用か…?」

「は、はい!あの…お願いがあるんですが…。」


魔法使いに即されて、
人魚姫は兄様にしたのと同じことを魔法使いにも話しました。


「なるほど…それで…その男がどうしているか見たいと…?」

「はい。…あの…可能でしょうか…?」

「…そうだな…。」


魔法使いは少し考え、そして人魚姫に言いました。


「…一つ尋ねたいのだが…」

「え?あ、はい?」

「お前は…その人間に逢いたいのか?」

「…え?」

「正直に。」

「…えっと…。」


魔法使いに尋ねられた人魚姫は少し迷いました。
人魚である以上人間に逢いたいなどと望んではいけないような気がして…。

ただ、魔法使いの『正直に』と言う言葉に、人魚姫は頷きました。


「姿を見るだけでなく…逢いたいのだな?」

「………はい…。」

「良いだろう、ならこの薬をやる。」


人魚姫の答えを聞いた魔法使いは
虹色の水が入ったビンを取り出し、人魚姫に差し出しました。


「?それは…?」

「これを飲めばお前の尾鰭は足になり、人の姿になれる。」

「!」

「ただ、海水に触れると元に戻る。完全な人になるわけではない。
 だが…一時陸であの男に逢いたいというのなら…十分だろう?」

「あ…ありがとうございます!」

「ただし、代価としてお前の声を貰う。」

「え…?」

「何事も等価交換主義でな。安心しろ、元の人魚に戻れば声は戻る。
 あくまでお前の声が失われるのは人の姿の間だけだ。」

「…わかりました。ありがとうございます。」


声が代価といわれ、少し不安を感じた人魚姫でしたが、
魔法使いの言う通り、あの人が無事かどうかを少し見るだけ…。
それなら…、そう思い直し薬を受け取りお礼を言いました。

魔法使いは薬のことを人魚姫に説明し、
最後に一つ重要なこと、といって人魚姫に念をおしました。


「……それだけは気をつけ、忘れず心に留めておけ。」



***



魔法使いから薬を受け取った人魚姫。
陸に上がると早速その薬を飲みました。

ただ…


「……!!」

「うっ…!っ…ああっ!!」


痛みを伴うと魔法使いは言っていましたが、
予想以上の酷い激痛が身体に走り、人魚姫はそのまま気を失ってしまいました。



***



(……ここは…?)


海岸で薬を飲み、気を失ってしまった人魚姫。
目を覚ますと…そこは何処かの室内のようでした。

綺麗な天井が視線の先に広がっていて、
視線を下ろすと、どうやらベッドの上のようです。

人魚姫はまだ痛む頭を抑えて起き上がると、
薬を飲んだことを思い出し慌てて布団の中を覗き込みました。


「!」


するとそこには人間の足が。
魔法使いの言うとおり、人魚姫の尾鰭はちゃんと足になっていたようです。
人魚姫は恐る恐るベットから降りると、少し歩いてみました。

少し痛みを伴うものの、何とか歩くことができました。
何だか不思議な感覚です。


(私…今人になっているんですね…。)

「…目が覚めたのか…?」

「!!」


人魚姫がベットの前を歩いていると突然声がして、
驚いた人魚姫はまだ足に慣れていないこともあり、転んでしまいました。

倒れた人魚姫に、声をかけた人物は慌てて駆け寄ってきました。


「すまない…驚かせたか…?」

(…いえ、すみませ…!!)


心配して駆け寄ってきてくれた人物。
人魚姫は慌ててお礼を言おうとしましたが、声は出ませんでした。

ただそれよりも…


「?どうかしたのか…?」


人魚姫の目の前に立っていたのはあの逢いたいと思っていた男性で、
人魚姫は驚いて、相手を凝視してしまいました。

驚いた顔をした人魚姫に男性は不思議そうな顔をし、人魚姫は慌てて首を振りました。


「お前は海岸に倒れていたんだ…何処か痛むか?」


まだ驚きが納まらない人魚姫に、男性は優しく声をかけました。


(もしかして…この人が私のことを助けて…?)


男性の言葉を聞いて、人魚姫はそう思いました。
が、それに答えることはできませんでした。

『ただし、代価としてお前の声を貰う。』

魔法使いの言葉が頭に蘇りました。


(……)


答えられず、人魚姫が困っていると、トントンと部屋をノックする音が聞こえました。


「王子、お嬢さんは目を覚ましましたか?」

「山南さん…」


入ってきたのは眼鏡をかけた優しそうな人でした。
どうやら彼はお医者さんのようで、人魚姫の容態を見てくれました。


「別に何処も悪くはないですね。」

「…そうか。」

「ただ…」

「?」

「彼女、声が出ないようですね。」

「…そうなのか?」


山南さんの言葉に、驚いて人魚姫を見る男性。
人魚姫はコクリと首を縦に振りました。


「…そうだったのか…すまない。」

「?」

「気がつかなくて…。」


何故か申し訳なさそうな顔をする男性。
人魚姫は慌てて首を振りました。


「王子、彼女は気にしていないようですよ。
 貴方もそんなに気にしないであげた方が彼女のためですよ。」

「…そうか、」

「それからお嬢さん。」

「?」

「彼はこの国の王子で、斎藤一君と言います。
 海岸で倒れていた貴方を助けたのは王子なんですよ。」

「!」

「王子はとても優しい方です。
 何か困ったことがあったらきっと力になってくれますよ。」


山南さんはそう言って王子を人魚姫に紹介し、部屋を出て行きました。
部屋に残された王子と人魚姫は少し沈黙し、
気まずい雰囲気でしたが、王子は人魚姫に優しく笑いかけると、


「その…まだ無理をしない方が良いだろうから…。
 お前さえよければ、この城にいてくれて構わない。
 この部屋は好きに使って構わないし、落ち着くまでいると良い。」


そう言ってくれました。
人魚姫は少し驚きつつも、王子の優しい気遣いに笑顔を見せ、
王子もそれにほっとしたように笑いました。

こうして人魚姫はしばらく王子の城でお世話になることになりました。



***



人間になった人魚姫。
話すことはできず、歩くこともままなりませんでしたが、
優しい王子様のおかげで、楽しい日々を送りました。

陸の上で目にするものは何もかもが新鮮で興味深く、
いろいろ教えてくれる王子もまた、人魚姫にはとても気になる存在でした。

ただ、そんな楽しい日が2、3日が過ぎた頃。
人魚姫はふと海の事を思い出し、そして兄様のことを思い出しました。

自分のことを一番に考えてくれる兄様。
いつでも自分を想ってくれている兄様。

陸に来て3日。
魔法使いに会ってすぐこっちへ来た人魚姫は、
陸にあがることを兄様に話していなかったのです。
きっと心配しているに違いありません。

それに、3日も兄様に逢わないなど今までなく、
人魚姫も兄様が恋しくなりました。


(…一目見るだけと思っていたのに…、
 こんなに近くに、こんなに長く一緒にいられたんです…もう十分ですよね…。)


人魚姫はそう結論すると、翌朝、こっそりお城を出て行きました。

王子を助けて釣れて来た浜辺、陸に上がって薬を飲んだ場所、
人魚姫はそこに行くとそっと海に足をつけました。

人魚姫の足は尾鰭になり、どうやら声も元に戻ったようです。


「…兄様…。」

!!」

「!兄様!!」


人魚姫が海に足を浸け、名前を呟くと、なんと兄様が現れました。
そして人魚姫を抱きしめ、心配そうに言いました。


「ったく…!心配したんだぞ!
 魔法使いにお前が陸に行ったと聞いた時には…!」

「兄様…ごめんなさい…!」


必死な兄様の様子に、人魚姫も思わず兄様を抱き返しました。
ここまで来てくれたことも…もしかしたら探してくれていたのかもしれません。


「ごめんなさい…」


素直に謝罪した人魚姫に、兄様は笑顔を見せると、


「…まあ良いさ、それで探していた奴には逢えたのか?」


そう言って人魚姫の頭を撫でました。
人魚姫はそれに笑顔を返し、今までのことを兄様に話しました。


「そうか…良い奴なんだな。お前が助けた男は…。」

「はい!とっても素敵な方でした!」

「……そうか、それじゃあそろそろ…」


それは嬉しそうに話す人魚姫に兄様は少し複雑そうな顔をしつつ、
そう言って、人魚姫を連れて帰ろうとしましたが、何やら物音がしました。
誰かやってきたようです。


「不味い…!隠れないと…」

「…こんな所にいたのか…!」

「!」


やってきたのは王子様でした。

兄様は慌てて人魚姫をつれて帰ろうとしましたが、
残念ながら先に見つかってしまい、慌てて兄様だけ海に潜りました。
人魚姫もまだ足が尾鰭のままなので、慌ててスカートを抑えました。


「突然いなくなったから…探したぞ…。」

「………」

「大丈夫か?ずぶ濡れなようだが…まさかまた溺れたのか…?」


王子様は人魚姫に近づくと顔を覗き込み、心配そうにそう声をかけました。
そして、返事ができないで困っている人魚姫をそっと抱きしめました。


「あまり心配させるな…。」

「!」


優しい王子様の言葉に人魚姫は自分の心臓がドキリとなるのが聞こえるようでした。
赤くなり、ますます返事に困る人魚姫。

王子様はそんな人魚姫を抱き上げると馬に乗せました。


「帰ろう、城に。」

「……」


もう海に帰るつもりでいた人魚姫でしたが、
王子様にそういわれ、断ることもできず再び城に戻ることになってしまいました。

そしてこのとき、人魚姫は気づいていませんでしたが、
まだ身体が濡れているにも関わらず、人魚姫の尾は足になっていました。


「………」


その様子を影から見ていた兄様は渋い顔で海に帰っていきました。



***



お城に戻ってきた人魚姫。
与えられた部屋で休んでいた時、足がまた人のものになっていることに気づきました。
一体何時戻ったのか…?

王子様が何も言わなかったことから、城に戻った時、
否、馬に乗ったときはもう足は人の足になっていたのでしょうか…?

でも、あの時はまだ身体は濡れていたはず、
乾けば元に戻ると魔法使いは言っていましたが…。

そこまで考え、人魚姫はあることを思い出しました。
魔法使いがもっとも重要だと言ったこと。
忘れず心に留めておくようにと言ったこと。
十分注意するように言ったこと…。


『ただし、お前がその男に好意を…恋心を持つようなことがあれば、もう人魚には戻れない。
 そして…その想いを伝え成就しなければお前は海の泡になって消えることになる。
 消えたくなければ、必要以上に長居せず、深入りせず、人間に心を奪われぬように注意することだな…。』


(……まさか…)



人魚姫は王子様に恋心を抱いてしまったのでしょうか…。

自分で自分の気持ちが人魚姫にはまだ理解できませんでした。
王子に好意を持っているのは確かですが…。



***



翌朝、人魚姫は王子に頼み、海へやってきました。
本当にもう人魚に戻れないのか…それを確かめるために。

そのため一人で来たかったのですが、
昨日のこともあるので、王子様は人魚姫を心配し一緒に来てくれたのでした。


「お前が海に行きたいと言うとは意外だな…。」

「?」


王子様は海を眺めている人魚姫に顔を向けるとそう言いました。


「いや、お前は海で溺れたのかと思っていたから…」

「……」

「…そういう俺も一度船から落ちて、海で溺れたことがある…。」

「!」

「それも最近だ。…あまり覚えていないが、女に助けられた気がする。
 とても優しい眼をしていた…女に…。」

「………」


覚えていない。
と王子様は言いましたが、あの嵐の夜のこと。
そのことだけでも覚えていてくれたことに、人魚姫は心が温かくなるのを感じました。


(…やっぱり私は…)

(王子様のことを…好き…?)


微かに波打つ心臓。
まだ確信はない…確信はないけれど…。

ちらりと王子様の方へ視線を向ける人魚姫。
すると王子様はとても優しい眼差しで人魚姫を見ていました。

目が合って、かぁっと顔は赤くなり、心臓の鼓動は激しくなりました。
もう言い訳して誤魔化すことは出来ないほどに…。


(わ、私は…///

「あ…おい。危ない…」

(え…?)


動揺した人魚姫が後ずさると、王子様は慌てて声をかけ、
その事に人魚姫が気づいたときには遅く、足元の砂浜に足を取られ、
人魚姫はまたも転んでしまいました。
それも海辺の方へ…。


(!!)

「っ!」


王子様は慌てて人魚姫の腕を掴みましたが間に合わず、
二人は海に倒れ、びしょぬれになってしまいました。

それでも…、


「…まったく…仕方のない奴だ…。」


王子様は人魚姫を怒るどころか笑っていて、
人魚姫も思わず笑顔を零しました。

人魚姫の尾鰭は足にはなりませんでした。

もう人魚姫は心の底から…王子様のことを好きなってしまったようです…。



***



もう人魚に戻ることが出来なくなった人魚姫。
当然海にも帰れなくなってしまいました。

そう思うと、いろいろ不安なこともありますが…、
今は王子様の傍にいられるだけで、人魚姫は幸せでした。

初めて感じた気持ちも、初めて持った想いも、
今は人魚姫には心地よく幸せなものだからでしょう。

ただ、翌朝人魚姫が王子様に会うと意外なことを聞かされました。


(…あの人は…)


翌日、人魚姫が王子様に会いに行くと、王子様は何やら女性と話をしていました。
しかもその女性を、人魚姫は見たことがありました。


「あ、こんにちは。貴方ですね、王子様の言っていたのは。」


女性は人魚姫に気づくと、笑顔で挨拶をしてくれました。
明るい笑顔と、明るい栗色の髪がが印象的の可愛らしい女性でした。

栗色の髪。
そう、人魚姫が王子様を助けて海岸に連れて行ったとき、
王子様を探しに来た女性でした。

人魚姫は頭を下げ、とりあえずその女性に挨拶しました。
女性は人魚姫が話せないことを王子様から聞いたらしく、
そのことを気遣いつつ、人魚姫にいろいろ話をしてくれました。

気遣いも出来て明るくて、本当に良い人でした。

彼女に対して、人魚姫がそう思ったのもつかの間…。
その夜、人魚姫は王子様から思いがけないことを打ち明けられました。

なんと王子様はあの女性と結婚するつもりだと言うのです。

驚く人魚姫に、王子は彼女があの嵐の夜に自分を助けてくれた人だからと答えました。
その言葉に、人魚姫は自分も王子を助けたのに…。
そう思いましたが、海岸に打ち上げられた王子を彼女が助けたこともまた事実だと思うと、
何も言うことはできませんでした。

それにもちろん、助けられたからと言う理由だけではないはず、
きっと人魚姫が王子を想うのと同じように王子も彼女を想っているからだと…。

やっと自分の気持ちに気づいた人魚姫でしたが、運命は残酷だったようです。

話すことができない人魚姫は王子様に想いを伝えることも出来ず、
魔法使いとの契約通り、泡になる以外に道はなくなってしまいました…。

とはいえ、王子と女性が正式に結婚するまでは、人魚姫は泡にはならないのか、
今までどおり、王子の城で生活をしていました。

海にも戻れなくなってしまったため、行く当てのない人魚姫。
彼女の境遇に同情した女性も、人魚姫が城にいることを許してくれたからでした。

(………)

ただ、そんな優しい女性や王子の気遣いも、
二人が共にいる所を見ると、苦しくなり、辛い気持ちになる人魚姫には、
二人の気遣いが素直に受け取ることが出来ず、
それにまた人魚姫は悲しい気持ちになるのでした…。



***


それから数日経ったある日。
王子と女性と人魚姫は船で海へ出ました。

王子は朝、人魚姫を誘う時、
今日、女性に正式にプロポーズするつもりだと伝えました。

船で海へ出るのはそのための婚約パーティーで、
翌日には結婚式をするということでした。

人魚姫は複雑でしたが、嬉しそうな王子様に笑顔を返し、
応援していると伝えるのが精一杯でした。

そして夜、人魚姫が海を眺めていると、
海面を月が照らし、光が浮かび上がると、そこに現れたのは兄様でした。


(!兄様…!)


あの時以来会っていない兄様。
勝手に陸に上がり、心配をかけてしまった兄様。

そして、もう直ぐ自分は泡になってしまう…。

人魚姫は兄様に何を言って良いのかわからず、困って俯きました。
兄様はそんな人魚姫をしばらく無言で見つめていましたが、
大きく飛び上がると人魚姫の元へやってきました。

傍へ来た兄様に、人魚姫が顔を上げると、
なんと兄様の長く美しかった髪がばっさりと短くなっていました。

驚く人魚姫に、兄様は水色の小瓶を差し出しました。


(……?)

「俺も魔法使いと取引したんだ。これをお前に…。」

(……え…)

「これを飲めば今夜一晩だけ、お前の声が元に戻る。
 その間に…お前の気持ちを、王子に伝えるんだ。」

(……!)

「………俺はいつでも、お前を見守っている…。」


兄様はそう言って人魚姫に小瓶を渡し、
抱きしめて最後にそう伝え、海に戻っていきました。

兄様がくれた最後のチャンス…。

人魚姫は小瓶の水を飲むと、王子様の元へ向かいました。



***



兄様が持ってきてくれた薬で声が出るようになった人形姫。
兄様がくれた最後のチャンス…。

人魚姫は必死で王子を探し、何とか甲板で王子様を見つけました。


「王子様…!」

「!」


人魚姫が声をかけると、王子は驚いた顔で振り返りました。


「お前…声が…」

「は、はい…あの…私…」

「そうか、声が出るようになったんだな…。」


そしてとても嬉しそうな顔をしてくれました。
人魚姫はそれがとても嬉しくて…思い切って想いを伝えようとしましたが…、


「よかった。本当によかったな…鈴花も、きっと喜ぶ。」

「!」


その言葉を聞いて、思わず言葉を飲み込んでしまいました。
もう…王子様の心には、あの女性しかいない…それを思い知らされて…


「…ありがとうございます…王子様…。」


人魚姫は辛うじてそう答え、動揺しそうになる気持ちをなんとか持ち直しました。
そして…、


「…今宵は…王子様にとって…何より喜ばしい門出…。
 王子様に救われ、今までお世話になったお礼と…
 このたびのお祝いの言葉を…ずっとお伝えしたいと思っておりました。
 あの美しい満月が、私にその機会を与えて下さったのかもしれません…。」


深く頭を下げ、空を、月を見つめると、人魚姫はそう言って言葉を続けました。


「王子様…このたびはおめでとうございます…心より…お喜び申し上げます。」

「…ああ、ありがとう…。」

「そして…私を助けて下さったことも、本当に感謝しています…。
 ありがとうございました。…私は…いつでも王子様の幸福を祈っています。
 お二人が生涯共に幸せでありますように…ずっと祈っています…。」


兄様がくれた最後のチャンス。
人魚姫が口にし、王子に伝えたのは…そんな言葉でした。
そして、吹っ切れたように笑顔を見せると大きく息を吸い、


「お二人の幸福を永久に願い、幸福の歌を捧げます。」


そう言って人魚姫は精一杯の想いを籠めて歌を歌いました。
空に、海に、そして誰より愛しい、たった一人の人へ…。

人魚姫が歌い終わると、丁度女性がやってきました。


「一さん。」

「ああ、今行こう。…ありがとう。」


女性に呼ばれ、王子様は人魚姫にお礼を告げると、
女性と共に去っていきました。

去り際…


「そういえば…お前の名前を聞いていなかったな。教えてくれるか…?」

「……私は……」

と言います。」

「そうか…、ありがとう…。」


初めて王子に名を呼ばれ、人魚姫は胸が張り裂けそうになりましたが。
二人が立ち去るまでは、何とか笑顔を保ちました。

そして、二人の姿が見えなくなると…、

「っ…うっ…」

堪えきれなくなった涙が頬を伝いました。
これで人魚姫はもう泡になる運命を避けることはできません。

この涙は泡となって消えることへの恐怖なのか。
それとも伝えられなかった想いなのか…。

絶え間なく零れ落ちる人魚姫の涙は、海の中へと溶けていきました。
そして、そんな海へ人魚姫は別れの歌を捧げました。

今まで育った母なる海へ。
そしてそこにいる大切なものたちへ。

そして…

「兄様…ごめんなさい…」

朝陽が射し、声が出なくなるまで、人魚姫は歌い続けました…。


***


翌朝、ついに王子の結婚式です。
人魚姫ももちろん出席するように言われていましたが…、

「っ…はぁ…はぁ…」

もう泡と消える身体…。
人魚姫の体力も限界でした。

「…王子様…」

もう姿を見る時間もありません。
人魚姫は最愛の人を心に想い、決意すると船から身を投げました。



私は…幸せでした…貴方に逢えて…。

ほんのわずかな時でも傍にいられて…。

伝えられなかったのは…私の勇気が足りなかったからです。

でも、貴方に出逢えたこと。

貴方を想ったことは…後悔はしていません…。

初めて感じた想いでした…。

ありがとうございました……はじめさん…。



身体は泡と消え行く中…、
人魚姫の意識も泡の中消えそうになった時…。


…)




人魚姫の名を呼ぶ声が。
うつろう意識の中、人魚姫が目を開けると、目の前にいたのは兄様でした。


(兄様…!)

(お前一人を逝かせはしない…俺はいつでもお前と一緒だ。)


驚く人魚姫に、兄様はそう言って手を伸ばしました。
もう身体は泡になって消えたはずですが、
触れたような、優しい感覚が人魚姫を包みました。


(そんな…どうして…)

(俺も取引をしていたんだ…魔法使いと。お前に持っていった薬を貰うときに…。)

(…え?)

(一度契約として奪ったものを本人に返すのは本来ならばありえない…。
 だが、お前が泡になって消えるようなことがあったら、
 その時は俺も運命を共にすると言って契約し、あの薬を貰ったんだ。)

(……!)


驚くべき事実でした。
兄様はそこまで人魚姫を想ってくれていたのです。

兄様が命を懸けて届けてくれた薬…それなのに…。

人魚姫が言葉を失っていると、兄様はふっと笑い、優しく人魚姫を抱きしめました。


(良いんだ、気にするな。わかっていたよ、こうなること…。)

(…え…?)

(お前はきっと言えないだろうと、本当はわかっていた。
 本当は、お前があの王子を殺せば人魚に戻れる…なんて短剣も貰ったんだが…)

(…!そ、そんなこと…!)

(ああ、お前にできるはずはないと思った。
 だから、せめて想いを…言いたいことを最後に言えたらと思ったんだ。)

(…兄様…)

(俺はわかっていたんだ、こうなること。だから…後悔なんてしていないさ。)

(…兄様…!!)


人魚姫は涙を流し、兄様に抱きつき。
兄様は人魚姫をただただ抱き返し、優しく話しかけました。


(それに、お前は最後に歌ってくれただろう?
 俺の為に…もう十分だ…、愛している。お前を一人にはしない。)


最後まで、愛しい人を想った優しい人魚の兄妹は泡となり海に消え、
魂は天に召されました…。

消えゆく最後のときまで、愛しい人の幸せを願いながら…。








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2009.01.18