「きゃあ!ねずみよ!ねずみ!」

「?」


賄い場の前を通りかかった時、そんな声が聞こえた。
殆ど悲鳴に近い叫び声。

この声は…夏美さん?





-ちいさな恩返し-




バタバタと騒がしい物音がして、何事かと思ったら、
賄い場から小さなねずみが駆け出して来た。


「ねずみさん?」


私が声をかけると、ねずみさんは私の顔を見て困ったように首を傾げた。


「…?」


困ったように、と言うのは私が何となく感じただけだけど
…何となく…そんな風に見えた。


「!!」


ねずみさんと見つめ合っていると、バタバタと賄い場から人が出てきた。


「あっちよ!」

「外に逃げたはずよ!」


何だか不穏な感じがして、
私は反射的にねずみさんを掴んで着物の袖の中に隠した。


「まだ出ていったばかりのはずだから近くに…あら、さん?」

「こ、こんにちは、夏美さん。」


やっぱりねずみさんを探している様子の夏美さんに、
私は少し緊張しながら話し掛け、夏美さんは訝しげな表情で私を見た。

私が動揺していること…悟られてしまったのかな…。

こういう時は泰衡様のような凛とした雰囲気やいつも冷静な性格が羨ましい…。
あるいは泰衡様みたいにもっとキリッとした表情をしていれば違ったかも…。

夏美さんの疑うような眼差しに居心地が悪くなり、
冷や汗が背中を伝うのを感じながら、半ば混乱気味の私はそんなことを考えていた…。 


「ねずみ…」

「え?」


すると、夏美さんはポツリと言葉を盛らした。


「ねずみよ、ねずみ!さん見なかった?」


そして続けて今度は力が入り、責めるような口調で言われ、私は大きく首を振った。


「い、いえ!見ていません…。」

「…そう?」

「はい!」


否定はしたけど、きっとまだ疑われている…。
夏美さんの視線にそれを感じずにはいられなかった。

でも…、


「あの…どうしてそんなに気になさるんですか?
 逃げてしまったなら、もう放っていても良いのでは…。」


追われているねずみさんが気の毒な気がして、つい尋ねてしまった。
すると、夏美さんは驚いたように目を見開き、私に詰め寄った。


何を言っているの!甘いわよ!さん!

「はい?」

「ねずみって繁殖が凄いのよ!逃がしたらどんどん増えちゃうじゃない!
 そしたら、また食材の倉庫を荒らされたりするし!大変なのよ!」


何だか随分ご立腹の様子。ただ、夏美さんの言い分はわかった。
ただねずみさんが嫌いだからというわけではなく、ちゃんと理由があるようだ。


「良い?見つけたらちゃんと退治しておいてね。」


黙っている私に、夏美さんはそう言うと賄い場に戻っていった。


「…………」


夏美さんの迫力に怯んでしまった私が言葉を失っていると、


「チュウ…」

「あ…」


ねずみさんが袖から顔を出した。何だか悲しそうに見える。


「大丈夫ですよ、退治なんてしませんから!ね?」


ねずみさんを手のひらに乗せると、
私は安心させるように精一杯の笑顔でそう言った。

でも…


(夏美さんの言うこともわかりますよね…。)


私はどうすれば良いのかと頭を悩ませた。

賄い場に被害が出ているのは事実なのだろう。だからこそ夏美さんは怒っていたのだし。
でも、だからと言って退治などできない。

ねずみさんだってお腹はすくのだ。
それは人間と同じだし当然のこと、責めるようなことではない。


(う〜ん…どうすれば…。)


…しばらく悩んだ結果、やっぱり屋敷にいさせるわけにはいかないと思った私は、
ねずみさんを何処か外へ放すことにした。


(屋敷にいたら、他の人に見つかって退治されてしまうかもしれませんし…。)


もちろん外にだって危険はある。
他の動物に襲われるかもしれない。

だから、なるべく安全な場所を…。

私がそんなこと、いろいろ思案していると、
ふいに名前を呼ばれて、飛び上がる程驚いてしまった。


さん?どうしました?」

「し、銀さん…、泰衡様…」


動揺している私を二人は訝しげな様子で見ていて、
ますます慌てた私は、突然すぎてねずみさんを隠す暇がなかったため、
二人にはすぐ見つかってしまった。


、お前それ…」

「危ないですよ、噛まれたら…」


ねずみさんを見てお二人が慌てた顔をした。
やっぱりお二人も『ねずみ』を良くは思っていないのかな…。


「大丈夫です、そんな…」

「怪我をしてからでは遅い、さっさとそんなもの放せ。」


泰衡様まで険しい顔をされて、私は困ったが、ねずみさんは外に放すと決めた所。
丁度良いから泰衡様にお願いしてみることにした。


「あの、放すと言っても屋敷の中ではちょっと不味いらしいので…。」

「だったら庭に放せば良いだろ。」

「お庭だと、直ぐに戻ってきてしまうと思いますので…。」

「…ならどうしろと?」


とはいえ、どう言うべきかまだ思案気味の私は遠回しに伝えようとし、
それが逆に泰衡様の機嫌を損ねてしまった。
眉間に皺をよせ、じっと睨まれてしまい、私は肩を竦めた。

ただ、それでも、この子は、このねずみさんは助けたくて…


「あの、だから外に…放してあげに行っても良いですか?」

「…………」


絞りだすように言った言葉。
段々と声が小さくなっていったのが自分でもわかった。

だから…泰衡様の返事がとても恐かったけど…。


「はぁ……」


泰衡様は大きなため息を一つつくと、スッと私の横を通り過ぎた。


「…」


呆れられてしまったのかな…?

複雑そうだった泰衡様の表情を思い出し、
不安になったが、通り過ぎた泰衡様は私に声をかけた。


「何をしてる。」

「…え?」

「行くのだろ?早くこい。」


泰衡様はそれだけ言うとスタスタと行ってしまった。


「……?」


『来い』と言われたのだから着いて行くべきなのか…。
いまいちどうしたら良いのかわからず、銀さんを見ると、
銀さんは静かに笑うと泰衡様に着いて行くように言った。



***



銀さんを残して、泰衡様はずんずん歩いていき、私は必死で後を追った。
泰衡様は結構足が早いのだ。
身長の差もあるかもしれないが、着いて行くのがいつも大変だった。

泰衡様は屋敷を出てさらに足を早めた。


「泰衡様…!待って…ふぁ!」


さすがに着いて行くことが困難になってきた私が思わず呼び止めると、
泰衡様は足を止めてくれた。
ただ、立ち止まるとは思っていなかったため、
私の方が急いでいた足を止めることができず、泰衡様にぶつかってしまった。


「気を付けろ。」

「う…;す、すみません…。」


低い泰衡様の声に叱られ、私は反射的に肩を竦めたけど、
意外なことに振り返った泰衡様は笑っていた。


「仕方のないやつだな…お前は…。」


驚くほどの優しい声と表情だった。


(泰衡様は…やっぱり優しいんですよね…。)


普段の厳しい態度や雰囲気が、少し恐いと感じるときもあるけど、
逢いたいと思うのは、逢えたとき嬉しいと思うのは…。

泰衡様の優しさにつられて、自分の顔が、口元が緩むのが自分でもわかった。
さっきまで不安だった気持ちも溶けて…心の底から笑えたのが。


「!」

「?」


すると泰衡様は一瞬驚いたように目を見開き、
また慌てたように私に背を向けた。


「泰衡様?」

「…………」


名前を呼んでも返事はなくて…。
せっかくほっとしたのにまた不安になってきた…。


「……泰衡様…」


もう一度、不安な気持ちで名を呼ぶと、
泰衡様は背を向けたまま、返事の代わりに私の手を取った。


「…?」

「早く歩け、ゆっくりしている時間はないんだ。」

「あ、は、はい!」


そして私の手を握ったまま泰衡様はまた歩き始めた。
言われた言葉、口調の強さに慌てて返事をしたけど、泰衡様は怒ってはいないみたい。

繋がれた手をそっと握り返して、私はホッと息を着いた。



***



「もうこの辺りで良いか?」


林の中へ入り込み、それなりに進んだ辺りで泰衡様は振り向いた。
確かに、ここなら人はあまり来なさそうだ。

私は肩の上に乗っているねずみさんに首を向けた。
するとねずみさんは小さく首を振ったように見えた。

ここだと何か不味いのか…。

林の中を見回し、ねずみさんがダメと言った理由を考えていると…。


「どうした?ここでは不服か?」


泰衡様が不満そうな声をあげた。


「あ、いえ;ね、ねずみさんが…」

「…ねずみ?こいつが不満だと?」

「……;」

「……お前、ねずみの言っていることがわかるのか…?」

「いえ…、何となく…そんな気がするだけですけど…。」

「………」


そう言った私に泰衡様は呆れ顔。
ただ、私が人間ではないことを思い出したのか、泰衡様が急に納得したような顔をしたので…。


「いえ、本当に言葉がわかるわけでは…;」


私は慌てて否定した。
精霊だからといって動物の言葉がわかるわけではない。


「……そうか。」

「…はい。」


しばらく考え込むような顔をしていた泰衡様は、ぽつりと呟き、私は頷いて返した。
何だか少し残念そうだ。もしかしたら、泰衡様は動物たちと…お話してみたいのかもしれない。


(金さんとか…お話してみたいのかも…。)


じっと顔を見つめたまま、私はそんなことを思った。


「何だ…?」

じっと顔を凝視していたからか、私の視線に気付いた泰衡様は少し眉を寄せた。
機嫌が悪くなりそうだったので私は慌てて首を振り、繋いでいた手を引いて先を即した。


「あ、あの…もしかしたら食べるものがないからかも…、この辺りの木は葉っぱだけですし…。」

「……そこまで面倒見きれん。」

「もう少し、もう少しだけ…探させて下さい…。」

「…………」


また不機嫌になりかけた泰衡様は冷たく言ったけど、
私がお願いすると仕方なくまた足を進めてくれた。

やっぱり泰衡様は優しい。


しばらく歩いていた泰衡様はある木の前で足を止めた。
そしてトンとその木を叩いた。


「これなら文句はないだろう。」


言われて顔を上げると木にはちいさな赤い実がなっていた。


「チュ!」


それを見て、私が答えるより先にねずみさんが木に飛び付いた。


「現金なねずみだ…。」


泰衡様は呆れていたが、大喜びしているねずみさんに私は安心し、その様子を眺めていた。


「よかったですね、ねずみさん。」


木を見上げてそう声をかけると、ポトリと手のひらに実が落ちてきた。
丁度真上にいるねずみさんが落としてくれたのだろう。


「…一応礼のつもりか…。」


泰衡様が呟くと、今度は泰衡様の頭の上にも一つ。


「…………」

「…ありがとう。」


私が笑顔でお礼を言うと、納得した様子のねずみさんはさらに木を上っていき、
葉っぱの中に消えていった。

ちいさなちいさなねずみさんのちいさな恩返しにホッと暖かい気持ちになった、
そんなひとときだった。




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2009.08.03